「没イチ」という言葉を見つけ、流行らせようとするメディア

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Yahoo!ニュースに「没イチ」という聞きなれないけれど、見るからに「死に関すること」であろうと思われる記事があった。

伴侶を亡くした後の人生をどう生きるか「没イチ」を名乗る人たち - Yahoo!ニュース
自らを「没イチ」と呼ぶ人たちがいる。妻や夫を亡くし、そのまま単身の人たちがこの言葉を使い始めた。人生を模索する没イチたちの生き方を探った。

没イチとは

没イチ(ボツイチ)とは夫や妻など人生の伴侶を亡くしてしまい、独り身になってしまった人たちのことを「バツイチ」に似せて作った言葉である。
この言葉を作ったのは、高齢者のライフスタイルや死生観などを研究するシニア生活文化研究所長の小谷みどり(50)という方と紹介されている。

小谷氏は、立教大学が開設した立教セカンドステージ大学で、2008年から「死」をテーマに教鞭を執っていて、自身も2011年に夫を亡くしています。

立教セカンドステージ大学

立教セカンドステージ大学とは、入学する年の4月1日時点で満50歳以上であり、高校卒業またはこれに準じた学力があると認められる人に受験資格が与えられ、「志願理由」をテーマに、今までどのような人生を送ってきたか、家族とのかかわり、地域との交流の他、ご自分の特技・趣味についてのエッセイ(2500字)と面接を経て合否を判定することにより入学できる1年制の学校(?)です。

大学と銘打っていますが、学位・修士を取得できるわけではなく、諸々の事由により大学に進むことが出来なかった方や余暇を充実させたいシニア世代をターゲットにしたコミュニティと言えます。

定員は70人と少人数で、野外活動や立教大学生に交じって講義を受けられる場合もあるので、定年後に人とのかかわりが少なくなった方などにはいいかもしれません。
費用は年間で約40万円となっています。

立教セカンドステージ大学
立教セカンドステージ大学は、50才以上のシニアを対象に、「学びなおし」と「再チャレンジ」のサポートを目的とした、新たな生涯学習の場です。

没イチ会は立教セカンドステージ大学在籍者で共感する人

前出の小谷さんが4年前に発足した「没イチの会」は立教セカンドステージ大学に籍を置く13人の方が会員となっていて「死んだ配偶者の分も2倍人生を楽しむ」をモットーに、月に一回の飲み会を行っているという。
飲み会では「配偶者の遺品はいつ処分したか」「配偶者の親族との付き合いは」「仏壇に供えるご飯はどうしているか」など、同じ境遇の者同士ならではの話題で盛り上がっているそう。

そもそも没イチの会を発足したのは、同情ではなく共感したいという気持ちから。
まだ若い40代や50代で配偶者を亡くすと、どうしても同情ばかりが集まってしまう。
確かに寂しいし悲しいが、同情されると「いつまでも悲しんでいなくてはならないの?」と感じることがあったそうで、亡くした者同士で共感する場を作ろうと思ったことが始まり。

同じように配偶者を亡くした人に向けた著書も2018年10月に執筆している。

「没イチ パートナーを亡くしてからの生き方」

没イチという言葉に嫌悪感

没イチという言葉に嫌悪感を示す人が少なくない。
人はいつ死ぬか誰にも分からないが、少なくとも30代40代で亡くなることを想定している人はいないでしょう。

早くに配偶者を亡くしてしまった人(そうでない人も)には、その人にしか分からない悲しみがあり、そこから時間をかけて立ち直ったごく一部の人だけが前向きな意味合いで「没イチ」という言葉を使っているのが実情です。

しかし、それを「新しい言葉見つけた!」と飛びついているメディアには辟易します。

没イチという言葉を見つけた歌舞伎役者の市川海老蔵さんも自身のブログで「最低な言葉」とハッキリ嫌悪の意を表しています。

市川團十郎白猿『私は嫌い』
何に?この言葉、没イチ?!最低な言葉、私はそう感じますね。

これに関してネット上の意見は、、

>同感です。
>ひどすぎます。
>悪意を感じる。

と、同じく嫌悪感を示す言葉が並びます。

バツイチとは話が違う

バツイチは多くの場合「自分(たち)で決めて」決別します。
DVなどの理由で別れた人は違うかもしれませんが、どちらか一方はおおむね前向きです。

反面、死別はそうではありません。
最近では「バツイチ」という言葉も後ろ向きな意味を感じることから「シングル」と言う人が増えてきていますが、そもそも略語というだけで軽薄なイメージになる日本語。
自分で自分を没イチと言うならまだしも、大切な人を失った人に向かって第3者が「没イチ」という言葉を使うことは言語道断。

この小谷さんにしても自分たちのコミュニティ内で留めておけば良いものを、欲に目がくらんだのか、出版社に無理やり決められたのかは分からないが「没イチ」という題名で出版したのはどうかと思う。

当たり前にならないことを祈るばかり

離婚がまだ今ほど多くなかった時代、なるべくなら世間に離婚したことを隠していた気がします。
ところが、いつの間にかバツイチという言葉が定着し(明石家さんまの離婚会見からという説が定説)、離婚自体が前向きな意味になってきました。

実際、配偶者を亡くした高齢者の方の間ではずいぶん前から使われだしている言葉という話もあり、もしかしたら没イチも当たり前になってしまうのかもしれません。

悲しみを乗り越え、前向きに生きようとする方々が「没イチ」という言葉を使うならいいのだろうと思います。
でも、どうしても言葉として軽い。

思いやりでも死者への尊厳でもなく、センスがないのだろう思う。

「わたし没イチでー」より
「夫を早くに亡くしまして」「でも今は充実しています。」

と言った方が人としていいだろうと思うがどうだろう。。。

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